2026/06/04 16:56

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【近刊】『2024▶2026 マザー・テラサワ 全思考集成 2』

速さに耐えられない時代

朝、目を覚ましてスマートフォンを開く。タイムラインには昨日まで知られていなかった人物の名前とそれを取り囲む数千の引用リプライが並んでいる。誰かが何かを失言した。あるいは誰かが誰かに鋭く反論した。事態は数時間で決着し、新しい話題が上から流れてくる。夜、テレビをつけると年に一度の漫才の大会で芸人たちが1点差で順位を競い合っている。決勝の一票で人生が変わる。視聴者は審査員の好みを批判し、敗れた芸人は翌朝にはまた別の戦いに向かう。調べものに困ったときは生成AIに質問する。1秒もしないうちにそれなりに整った答えが返ってくる。
私たちが生きている時代は、こうした速さの集積体である。即時に反応し即時に判定し即時に決着をつけることが「能力」として評価される。逆に、速く言い切れない者は遅れているか無能か弱い人間として規定されてしまう。1分、1秒の遅延が敗者の印になる。
これは個人の処世術の問題ではない。労働の現場でも消費の現場でも政治の現場でもメディアの現場でも、同じ速さの論理が貫通している。私たちはみなその論理の中でどうにか速く反応する技能を身につけて生き延びている。

マザー・テラサワという書き手

『マザー・テラサワ全思考集成1』の刊行から2年がたった。『集成1』の巻末対談「寺澤学を解放する」(牧島俊介×寺澤学)は、「哲学者」か「哲学に詳しい人」かという二項対立で哲学芸人の存在様式についてマザーに半ば挑むかたちで問いを投げかけていた。この対談を私は「今日の牧島君の問題提起を受けて寺澤学は解放されるのか」と締めくくり、読者への呼びかけとして残した。だが、この間、マザー・テラサワは何も変えていない。お笑いライブに立つ。毎月、決まった日に読書会を開く。隔月刊『暇』誌に「マザー・テラサワ時事放談」を寄せる。同じことを同じテンポで続けている。しかし「変えていない」ことは何かを停止させているということではない。同じ動作を反復することによってその動作の質そのものを純化させる形で彼はその後の2年間を生きてきた。

遅い身体の速度の自治

では、その同じ動作とは何か。具体的に見ていくと2つの装置が浮かび上がる。ひとつは読書会である。「思想のユーモア/ユーモアの思想」と題された自主主催のこの読書会で、マザーは毎月1冊の思想書を読む。2014年に始めて12年続けている。1冊にじっくりとどまる、というスタイルではない。月ごとに別の一冊に移っていく。ただし「移る」と言っても、ベストセラーや話題書を次々と消費していくのとは違う。ハーバーマス、シュミット、ヴェーバー、アーレント。基本となるのは、長く読まれてきた思想書のラインナップだ。それを毎月一冊、聴衆を前に語る形で読み解いていく。12年というスケールで見れば、扱った思想書は100冊を超える。ビジネス書を週に1冊読むような知的消費の速度とは別の話だ。これは現代の知的生活ではまれな時間である。
読書会12年の持続は、マザー単独の作業ではない。読書会のアシスタントを長年務めてきたしまだだーよという男がいる。彼は聞き手としてマザーの語りを受け止め、引き出し、整える作業の協働者である。12年同じテンポで読書会が続いてきたのは、マザーの遅い身体がしまだだーよという遅い身体と並走しているからだ。1人で12年間、月1冊の思想書を語り続けるのはたぶん持続しない。聞き手がいて進行を支える身体がいてはじめて月1冊のテンポは保たれる。

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マザー・テラサワ定例読書会のハーバーマス追悼企画『近代 未完のプロジェクト』(2026年4月26日、中野)

これは「遅い身体の速度の自治」と呼ぶべき構えだ。速度の自治とは自分の速度を自分の手で守ることであり、誰か他人に決められた速度で動かされない、誰かに強制される速さに合わせない。ただし、速さの外に逃げ出すわけではない。速さの渦中にいながら自分のテンポを保つ。マザーは芸人として即時消費されるお笑いの世界のなかにいる。速度の論理の中にいるがその渦中で自分の読みのテンポを12年保ち続けてきた。すなわち、自らの身体の速度を他人に明け渡さない身体のあり方である。

読む身体

さらに別の角度からいえば、マザーの定例読書会は「読む身体」の保持と継承である。ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で示したように、近代の共同体は互いに面識のない人々が同じ書物・新聞・小説を「読む」ことによって「同じ国民」「同じ時代」を共同想像するしくみで成立してきた。これを支えていたのが「読む身体」である。しかし読む身体は、2010年ごろから多方面で終焉しつつある。スマートフォンのスクロール、ショート動画、SNSの断片的な投稿、生成AIに代行させた要約。どれも一冊の書物を頭から終わりまで読み通す身体のかたちを解体する方向に作用する。読む身体の終焉は想像の共同体の終焉でもあり、現代の左右の政治の機能不全もまたここに根源を持つ。マザーの読書会は、解体しつつある読む身体を月1冊のペースで保ち続ける場のひとつである。本書に収録された連載原稿の各回もその読む身体を背景にして書かれている。

「マザー・テラサワ時事放談」

もうひとつの装置が、隔月刊『暇』誌の連載「マザー・テラサワ時事放談」だ。隔月誌で時事を扱うのは書き手にとって楽な仕事ではない。書いた時点と読まれる時点で世論はずれている。書いている時点でホットな話題は読まれる頃には風化している可能性が高い。一過性のバズに飛びつくと読まれる頃に完全に空回りする。これは隔月誌の書き手なら誰もが直面する制約で多くの書き手はここで降りていく。しかしマザーは時事を扱い続けている。隔月誌で時事を書くということは賞味期限の長い主題を選ぶ眼が要るということだ。1週間で消費し終わる話題ではなく2カ月後に読まれてもまだ語る価値が残る主題を見抜く眼。さらにその主題を他の媒体が先に擦り切ったあとでもなお書く価値が残っている角度から扱う書き方が要求される。これが隔月誌で時事を扱う書き手に課される条件である。
「定例読書会」「マザー・テラサワ時事放談」、マザーはこの2つの装置を並行で持続している。2つを並行で続けることが何を生むかは本書を読めばわかる。読書会で蓄積された思想書のレパートリーが時事連載の補助線として機能している。フワちゃんの炎上を論じる回ではマクルーハン『グーテンベルクの銀河系』が引かれ、占い師の没後ドラマを読む回ではアーレント『人間の条件』が置かれる。クマの出没を語る回では、その月の読書会で『実践 野生動物管理学』が精読されていることが、本文の中で明かされる。以下、特に明瞭な4本を取り上げる。

SNS社会における精神分裂 連載第13回はSNSの引用リプライ炎上事件を扱っている。一夜のうちに人物が決着し、レギュラー番組が降板し、企業のCM契約が切れる、というスピードの中で、その渦の中心にいた人物の名前と固有の事例から、一段引いた構図に話が運ばれていく。マクルーハンが半世紀以上前に書いた『グーテンベルクの銀河系』が傍らに置かれる。活字文明以降の人類は精神分裂状態に陥っているという長期的な認識を引きながら現代のSNS時代における分裂はそれよりさらに複雑になっているという。即時的な判定の手前で半世紀のスケールで記述される。結論は出ない。判定ではなく余韻が残る。

フジテレビ問題第三者委員会調査報告書 連載第16回は、社会的に話題となった『フジテレビ問題第三者委員会調査報告書』をマザーが読み通している。約390ページの公表版を隔月誌の連載枠の中で受け止め直す。報道による要約はすでに大量に流れているがその要約からこぼれ落ちる「報告書を実際に読むことで見えてくる構造」をマザーは描こうとしている。報告書の中の特定の論点に飛びついて断罪することもしない。長文テクストを頭から終わりまで読み通すことができる身体こそが読む身体である。

創作と生成AIの狭間で 連載第20回は、マザー自身が生成AIに自分の原稿を諮ってみる挑戦を扱っている。一度書き上げた原稿に不安を覚えたマザーはそれを生成AIに送り添削を求めた。生成AIは凄まじいスピードでマザーの原稿を修正し、「余計な修飾も無く言葉選びも適切」なはるかに整った原稿を返してきた。マザーはそれを読み、別の不安を覚えた。「この文章の中にマザー・テラサワはいるのだろうか?」生成AIの修正は確かに整っているが「私の癖が脱色されすぎて人間らしさが失われている」と感じる。結局マザーは生成AIの原稿を採用せず、当初のテーマもボツにして別のバージョンの原稿を書き上げる。AIは速い。AIは整っている。AIはマザーよりも上手く書く。それでもマザーは自分の脳から発信された文章を自分の手で書くことを選ぶ。「ここまで書いて、本当にゴツゴツしたまどろっこしい文章で眩暈がする。が、それが私らしくて良いと今回ほど思った原稿執筆も無い。」遅い身体の選択がそのまま原稿として書かれている。

予言者を求める危うい心性 連載第22回は、占い師の没後ドラマを入口に、「断定的な予言で人を惹きつける装置」を分析する。マザーはそれを「事物の複雑さに留まることに耐えられない」人々が頼る装置として位置づける。そして、その対極に自分の読書会があるとする。「滔々と思想書に向き合い意味解釈を続けてきた読書会は一見反時代的で、もっとも現代的な営みかもしれない。12年哲学芸人として細々とこのイベントを続けてきたが、こういう時代に突入するとそれなりに意味はありそうだ。」12年の読書会という遅い時間装置を断定的な預言の対極にあるものとしてマザー自身の手で位置づけている。

4つの回には共通する書き方がある。即時の話題から入り、即時の判定を出さない。隔月のテンポで遅く話を運び、長い時間スケールの認識を傍らに置く。読書会という時間装置から取られた補助線が、随所に置かれる。そして結論を急がない。月の終わりに、判定ではなく余韻が残る。

「哲学芸人の遅い身体」の可能性を読む

「遅い身体」とは、速さに耐えられない時代にその速さに乗らない身体のことだ。ただし、速さに耐えられないからゆっくり生きるという単純な引き算ではない。速さの外側に逃げ出すのでもない。速さの渦中にいながら自分の速度を自分の手で守る身体。これが「遅い身体」のおおよその輪郭である。もう少し細かく4つの位相に分けて見ることができる。

①即時の判定に押し流されない。SNSのタイムラインで瞬時に断罪したり、賛同したり、批判したりすることに押し流されない判定を保留する力。
②長文を頭から終わりまで読み通すこと。半世紀前の思想書、何百ページもの報告書、専門的な研究書。書物を1冊として受け止める身体性。スマートフォンでの断片的な情報取得とは異なる構え。
③結論を急がない。論じている主題に対して性急に結論を出さない。結論を出さずに判定ではなく余韻として終える。
④長期的なリズムで同じ動作を反復する。10年単位で読書会を続ける。隔月のテンポで連載を続ける。短期的なバーンアウトとは違うゆっくりとした持続のリズム。

この4つを並べてみると、現代の標準的な労働者・消費者・SNSユーザーが日常的にやっていることのほぼ正反対であることがわかる。私たちはみな瞬時に判定をし、断片的に情報を取得し、何かしらの結論にたどり着こうとし、短期で消費し短期でリセットしている。「遅い身体」はその標準の対極にある。しかし「遅い身体」は理想や規範ではない。誰もがそうあるべきだという話でもない。速さの論理が支配する時代にあって別のテンポで生きる身体がひとつの可能性として存在することを示しているのだ。
そしてその「遅い身体」を芸として思想として、文章として提示し続けてきたのがマザー・テラサワという「哲学芸人」の遅い身体である。
本書に収録された12本の連載原稿は、その現在のかたちを12回反復して示している。一冊として読み通してみると、隔月のテンポで反復される遅い身体のリズムがひとつのまとまりを持って立ち上がってくることが体感されるはずだ。